スイス時計協会FHは1982年11月19日に正式に設立され、翌年の1月1日から活動を開始しましたが、その歴史は一世紀以上前に始まっていました。というのは、1876年に発足したスイス時計商工会議所と1924年設立のスイス時計製造業者連盟が合併して現在の協会となったためです。業界における行動の一貫性をさらに高め、2団体の様々な活動の結果としてすでにある程度は得られていたシナジー効果をさらに向上させたいというニーズが認識されていたため、これに応えるべく、この再編が実施されました。
1876 - 1900
ジュネーブ州、ヴォー州、ヌーシャテル州、ベルン州の連邦商工会議所の代表者たちが「団結することによって」、フランス語圏スイスとジュラの主要産業に「効果的な代議制度を与えることを目的とした」措置を講じました。こうした取り組みにより、1876年5月14日には州際ジュラ産業協会(Intercantonal Association of Jura Industries)が創設されることになりました。まれな例外を除いて、発足当初の四半世紀の同協会は、時計製造とその子会社関連の業務のみで忙殺されました。そのため、1900年にスイス時計および関連産業(宝石、金銀製品、オルゴール)商工会議所となったのは、至って当然の流れでした
1901 - 1925
この新たな団体は企業を代表するものではなく、州商工会議所および地域事業者団体を代表するものでした。1924年1月17日、時計産業雇用者9地区(ル・ロクル、ラ・ショードフォン、フルリエ、ベルン、ビール/ビエンヌ、トラメラン、ポラントリュイ、ジュネーブ、ドイツ語圏スイス)の代表者たちがスイス時計製造業者連盟(FH)を創設するに至ったのは、この独自の特徴ゆえでした。
1926 - 1930
その狙いは、すべての時計製造者を国家レベルで一つにまとめる組織を形成することでした。一方で、当時存在していたのは、他の業界セクターの場合と同様に、地域化構造のみでした。この取り組みはその後、絶頂期に達した1920年代の危機(生産過剰、売上減少、失業)を背景にしながら展開しました。価格下落は、当時の重大な懸念事項でした。そのため、腕時計および時計メーカー間で最低価格制度を導入し、部品のサプライヤーとムーブメントブランク・メーカーとの協定を締結する必要がありました。ムーブメントブランク・メーカーは1926年に独自の組織Ebauches SAを、部品サプライヤーは1927年に時計部品製造者組合連合会(UBAH)を設立しました。
クライアントとサプライヤーとの討論システムは、1928年に導入されました。その後、これら3つの大きな力の間での初めての団体協約が、日の目を見ることになりました。彼らは価格に関する相互尊重と「シャブロナージュ(chablonnage、時計部品の輸出)」(ただし、フランス、ドイツ、ポーランド、日本を除く)」の禁止を保証するよう努めました。
1931 - 1945
1931年には、Ebauches SAと予備部品(アソートメント、テンプ、ヒゲゼンマイ)の製造業者数社が合併し、ASUAG(連邦、銀行、スイス時計商工会議所、UBAHおよびFHの支援を受けて設立された団体)となりました。従来のシステムを統合し、反対派による「不正取引」を制限するために、同団体は連邦の介入を求めました。1934年にベルンは、組み立てられていない部品やムーブメントブランク、補充品の生産許可証および輸出許可証を導入することを定めた「スイス時計産業の保護を目的とした連邦政府法令」を発行しました。この制度は、特定の適用がなされることなく長年にわたって延長され、その後、段階的に廃止されて、最終的に1970年代初頭に完全撤廃されました。
1946 - 1969
第二次世界大戦が終結する頃、FHはクライアントとサプライヤーの関係の基準となる文書を残しつつ、その活動を多様化させました。スイスの時計製造業を世界の舞台で復活させるべく、1940年代後半からの20年間に全5大陸にわたり、スイス時計の集団的プロモーション活動を行ったのです。こうした取り組みは、「エタブリシュール(établisseurs)」が購入した、または製造業者が時計という形で販売したムーブメントブランク1個に50サンチームの税金を課すことによって賄われました。
これと並行して、1948年には、スイス時計商工会議所が団体の新条項を採択しました。これは、それまでは時計を製造した州に限定されていたリンクを効果的に排除し、100%民間機関にするという内容のものでした。その結果、州際商工会議所は姿を消し、その代わりに生産者連盟や生産者団体(FH、ASUAG、UBAHなど)が誕生しました。
1970 -
1960年代末から、集団的プロモーションキャンペーンの損失を補うために、FHはスイス内外で、経済、商業、法律、さらには技術的分野で新たな範囲の活動を開始しました。また、産業界とスイス当局、外国当局間の関係において、ますます重要な役割を果たすようになりました。その後、その権限は徐々にスイス時計商工会議所のそれと重複するようになりました。そのため、1982年には必然的な合併に至り、ビール/ビエンヌに本社を置く、スイス時計協会(FH)が誕生したのです